'金井清一のゴルフは、楽し。'

第9回「ジャンボ尾崎との対決前の緊張の前夜」

日本プロゴルフ選手権第40回大会。確か67で回り、前年優勝で飛ぶ鳥を落とす勢いのジャンボ尾崎に、私が2ストロークのリードで迎える最終日の前夜です。
 当時はまだ選手ひとりが一部屋を使えるような時代ではなかったので、僕も友達と相部屋で寝泊まりしていました。この歳になるとガーガーといびきになっていますが、当時はまだ若いから寝息。友達のスースーという寝息が気になって眠れない。「この調子でいけば、もしかして尾崎に勝てるんじゃないか」という気持ちと「まさかそんなわけない。相手はジャンボだ、前年の覇者だ」という気持ちが交錯して眠れないまま、明け方4時くらいになりました。
 下の調理場で、多分猫か何かが皿でも踏んだんでしょう。ガチャーンという大きな音がして、これでパッチリと目が覚めてしまいました。全く眠れなかった。旅館で出された朝食も喉を通らない。喉を通らないというのは比喩ではなくて、本当に通らないのです。何か食べないといけないと思い、ゴルフ場に行ってからトーストを1枚焼いてもらい、考えましたよ。どうしたらこのトーストが喉を通るか。
 ぬるめのミルクをもらい、パンを湿らせて食べれば喉を通ると思ったんですが、どうしても通らない。いくら朝は食欲が出ないといっても、いつもならこんなことはありませんから、もしやジャンボに…という気負いとすけべ根性が強かったんですね。しょうがないから鳥になったつもりで空を仰いで喉をこじ開け、ひと切れの半分を胃に入れました。わざとうんと苦くしたコーヒーをもらい、それを2杯飲み、よし、勝てるかも、という気持ちでクラブハウスを出ると、ちょうどジャンボがテレビ局のインタビューを受けているところでした。
 ジャンボの後ろから私が近づく形だったので、彼は私に気が付かないまま取材に応じている。「2ストロークの差ですが、どうですか」というアナウンサーに対して尾崎は「2ストローク?1ホールだよ」と、いかにも見下した言い方ですよ。つまり、尾崎がバーディーで金井がボギーであれば、プラマイゼロで1ホールで追いつくという意味。この生意気な言い方を耳にしたおかげで不眠なんか吹っ飛びましたね。何くそ、とやる気になりました。

第8回「会社都合によるテレビ番組収録の思わぬ効用」

私をテレビに出させるために企画した「ワインポイントレッスン」は、ゴルフ人口の増加という時代背景もあって、まあまあの評判を得ることができました。もっともゴルフ番組としての本命はトーナメント方式による勝ち抜き戦。有名にならないと出られないというんなら有名になってやろうじゃないか。そんな気持ちでワンポイントレッスンの収録をしていました。高額の給料をいただいているからには、こういう仕事もしょうがない。そんな気持ちも正直ありました。
 まさか、この番組の収録経験が後の試合に役立つとは思っていませんでした。私にとって飛躍となる試合「日本プロゴルフ選手権」の第40回大会です。この選手権は1926年に始まった日本最古の伝統ある大会。戦争で中断したものの1949年には復活して人気を得ていました。
 日本のゴルフ界の、文字通りトップを決める大会。と同時に、この大会で20位以内に入ると、翌年の試合には全部参加できるという特典が付与されるのです。青木功、尾崎将司、中嶋常幸、デビット・イシイなどなど、名選手を多数輩出していることでもこの大会に勝るものはありません。そして私の頭には、所属するスリーボンド社のもちつき大会での一般社員の冷ややかなつぶやき「優勝してから言ってくれよな」がこびりついていました。
 会場は千葉県の紫カントリークラブ。上位の試合になるとテレビ放映があります。活躍している一部のプロを除いては、撮影された経験なんてありませんから、当時まだ16ミリだった撮影機を回す音には慣れていません。これがシャーシャーと大雨でも降っているかのようなすごい音。お、今撮影に入ったな、と分かるものですから、撮影機にせかされているようで、テープが回っている間に打たなくちゃいけないような気分になってしまうわけです。テレビ局への義理もないのに、不思議なものです。すべてシャーシャーという音のせいですよ。
 ところが私はワンポイントレッスンの収録でこの音に慣れていました。よって冷静なプレーができます。おかげで成績は順調。とうとう前年優勝のジャンボ尾崎と優勝を競うところまでいきました。無名の金井かジャンボか。観客席もおおいに沸きました。

第7回「もちつき大会で思い上がりを非難され発奮」

 スリーボンド社から800万円の契約金を提示された時は、びっくりしたのと同時に、すぐ我に返りました。待てよ、いくら何でもそんないい話があるわけがない、となるとスリーボンド社のお客さんにレッスンするような仕事かもしれない。自分としてはトーナメントプロでやるんだと決意したわけですから、報酬につられてここで日和るわけにはいきません。
 そこで「トーナメントプロでやりたいから」と断ったんです。すると「OK、それでやれ」と言うではありませんか。とにかくあの時は、金額といい太っ腹な社長といい、幾重にもびっくりしました。
 こうして私はスリーボンド社所属のトーナメントプロになるという幸運に恵まれたわけです。1969年のことです。
 付近のゴルフ場で練習にあけくれる日々。他の社員よりはるかに高い給料をもらっていることは知っていますから、どこかに申し訳ないような気持ちはありましたが、一方で奢りもあったことは認めざるを得ません。実力を評価されたわけだから厚遇されるのは当然だ、みたいな思い上がりですね。
 確か会社の新年もちつき大会の時でした。私のそういう態度が鼻持ちならなかったんでしょう。何か言った時に、ある社員から「そういうことは優勝してから言ってくれ」と、グサリと釘を刺されたんです。
これは効きましたね。お山の大将みたいになっていたことを周囲にも察知されたわけです。なんとしても優勝しなくちゃいけないと自分に誓いました。結果的に、私は2年後の試合で優勝して使命を果たすことになるのですが、その2年間に何をやっていたかというとテレビです。
 当時スリーボンド社がゴルフ番組のスポンサーをしており、私を番組に登場させようということになりました。ところが「名もないプレイヤーなんか出せない」とディレクターに却下されてしまった。なんとか出させようと画策して「ワンポイントレッスン」という新しいコーナーを作ることになったんです。
 試合にも関係ない。自分のための練習になるわけじゃない。まさかこの経験が2年後の優勝に多大なる貢献をすることになるとは思ってもいませんでした。

第6回「関東オープン4位 アジアサーキットで決意を新たに。」

トーナメントプロ目指しての最初の試合は「関東オープン」でしたね。これはジャンボ尾崎とも初めて一緒になった試合。確かジャンボが3位、私は4位でした。ここで5位までに入ると「アジアサーキット」に出場できる。フィリピン、シンガポール、マレーシア、インド、タイ、香港、台湾、韓国、日本の9か国を回るもので、それだけでも過酷なツアーですが、旅費など経費だけで百万円くらいはかかるんです。
プロとしてまあまあのスタートを切ったわけですし、今後の自分のゴルフ人生を占う機会としても参加したいと思っていたら、当時の勤務先だった上板橋のゴルフ練習場のお客さん達が旅費をカンパしてくれたんですよ。節目節目でいろいろな人に助けられっぱなし。本当にありがたいことです。
日曜日の夕方ごとに飛行機に乗って移動するというツアーでした。どの国でも大使館から招かれてお鮨やおにぎり、その他和食をごちそうしていただき、ちょっとしたVIP気分でしたね。このツアーでは成績がどうのというよりも、精神的に鍛えられたように思います。日本にいるとプロ同士でもアドバイスし合ったりということはありますが、外国だと単に敵になるんです。敵同士「ごくろうさん」とか言ってね。そうなると思い切り自分のゴルフができる。よし、日本のトーナメントをがんばろう、という決意を外国で強くした感があります。
その後はまあ、鳴かず飛ばずという時期がしばらく続きました。転機が訪れたのは「JALオープン」。JALがスポンサーで府中カントリーが会場。確か1969年で、オーストラリアのケルネーグルも参加していたのを覚えています。僕はここで7位に入ったんです。
この時のプレーが、スリーボンド社の社長の目に止まりましてね。8百万円の契約でどうかというオファーがあったんですよ。日本シリーズで優勝してすごい勢いだった河野高明が、1千万円プレイヤーだと騒がれていた時代の8百万円ですよ。いやもうびっくりしました。(次号に続く)

第5回「3回目の挑戦でプロテスト合格! インストラクターからトーナメントプロへの第一歩を踏み出す。」

念願のトーナメントプロになったのは昭和40年。私は25歳でした。当時のプロテストというのは、今と比べたら甘いものです。1ホール72パーを2日間150ストロークで周ると合格。私の成績はたしか144でした。150人くらい挑戦して合格者は約10人でしたね。私も3回目の挑戦で念願が叶ったわけで、246番目のプロ協会入りでした。もちろん「これでプロだ!やったぁ!」と、小さくもない体が跳ね上がるほどの気持ちでしたよ。
インストラクターも広い意味では「プロ」と言えるわけですが、私の目標はあくまでトーナメントプロの方でした。物価は上がるのにインストラクターの給料が4万円で停滞しているのに対し、トーナメントの賞金は桁が違いますからね。
プロテストに合格した時の勤務先は上板橋のゴルフ練習場です。オープンな性格の私にしては数少ない秘密の理由で浜田山の練習場をクビになった後、すんなりと上板橋に移ることができたのは、練習ボールを卸している業者の方が紹介してくれたからです。この方にも大変お世話になりましたね。
上板橋の練習場というのは、40ヤード6打席しかない小さな規模でした。ここに社長が、70坪の空き地を利用してゴルフ場と同じ芝生を植え、パットの練習場を作ってくれたんです。ここで練習できたことも、プロテスト合格のために大きな意味があったと思います。
相変わらず早起きして都民ゴルフ場でハーフラウンド周り、アクセスの点で申し分のない上板橋に自転車で駆けつけて仕事兼練習。そんな毎日の中でのプロテスト合格という快挙。こうして私の本格的なゴルフ人生がスタートしたわけです。
(次号に続く)

第4回「時代の波に乗って仕事場確保。 お客さんのない昼間に練習三昧。」

インストラクターは初日でクビになったものの、時代が味方をしてくれたというか、ついていたなと思うのは、その頃、昭和30年代後半から日本でゴルフブームが始まったことです。高度経済成長期で何でも右肩上がりの時代。ゴルフ人口も、ゴルフ場も増えていきました。
知人の紹介で、その中のひとつ、杉並区浜田山のゴルフ練習場に入れてもらうことができました。あの辺りの地主さんが造ったものなのですが、お客さんは土・日しか来ない。だから平日の昼間は練習し放題という幸運に恵まれました。
それにこの練習場にはアプローチ・バンカーとパッティング・グリーンもあった。あの日のバンカーの屈辱を払拭するためにも、練習に励みました。ひとりで思い切りクラブを振れるのですから、この出会いにも感謝しなければなりません。
お客さんは、シングルプレイヤーばかりです。アマチュアとしては上のクラス。私など、70台のスコアだからインストラクターになっちゃったというだけですから、お客さんに教えられることも多々ありましたね。
当時、小池兄弟のお兄さんが、都民ゴルフ場でも練習していました。それで私も朝5時に起きて、6時くらいからハーフを回ります。これを終えてからバスと電車を乗り継いで、2時間半かけて浜田山へ向かいます。到着は11時前後。ご飯を食べて、午後9時頃までが勤務です。    といっても、夕方までは誰も来ません。勤務しながら練習できたわけですね。
そもそも私がゴルフを始めたのは報酬が目当てでした。インストラクターの給料4万円は、はじめの頃こそ魅力でしたが、普通のサラリーマンの給料や物価が毎年上がる時代なのに、全然上がらない。これじゃあ、早くトーナメントプロになるしかありません。次回でやっとプロになりますが、その前に浜田山のゴルフ練習場もクビになってしまいました。この理由は秘密です。
(次号に続く)

第3回「インストラクター初日にクビで闘志!!」

目標はプロ。その前に、まずはインストラクターの道を目指すという決意から1年後くらいに、願いが叶いました。ここまではそんなに大変じゃありません。年間平均70台のスコアでまわれるようになると、練習場でインストラクターができるようなるわけですから。スコアを達成できたころ、小池兄弟に紹介してもらって都内の練習場に採用してもらいました。
これでゴルフで自立できるのだ、ラジオの組立内職ともお別れだと、それはもう嬉しかったですよ。小池兄弟には何から何まで助けていただき、命の恩人のように思っています。
いよいよ初仕事の日。「ラウンドレッスンをお願いします」と言われて大箱根のゴルフコースに連れて行かれました。そこまではいいんですが、人生ってそんなに順調にいかないものだという経験を初日からすることになるなんて、思ってもいませんでした。
何があったかというと・・・。バンカーから脱出できなくなってしまったんです。大箱根のバンカーは、足が埋まるくらいにサラサラしていました。ヘタに打つと素通りしてしまうし、力を入れてもダメ、抜いてもダメ。どうにもなりません。結局1日でクビです。だって、お客さんはラウンドで上手くなりたいから、お金を出してわざわざインストラクターを頼んだわけで、そいつがバンカーにはまっているんですからね。当然、報酬も出ません。
落ち込んだなんてもんではありませんよ。もう、お通夜よりひどい。帰りの車の中で泣き出しそうでした。でも、アパートに帰って小池兄弟に相談して闘志が湧いてきました。深いバンカーのある我孫子に連れて行ってもらって、練習に練習を重ねました。つまり、いろいろなバンカーを経験してなかったことが失敗の原因だったわけですからね。後のプロ生活でバンカーの得意な金井に転向できたのは、この初日のつまずきがあったからなんです。
(次号に続く)

第2回「まずはインストラクター目指 して居候」

ボールを、しかも目の前に置いてあるボールを打って、右に行ったり左に行ったりしていい給料をもらえるんだったら、電気のややこしい配線で四苦八苦するよりよほどいいだろうと、ゴルフのインストラクターになる決意をしたわけですね。仕事の面では、勤務先の広瀬無線でのオーディオの研究にちょっと行き詰まり感に陥った時でもあったんです。電気がすべての少年時代を過ごした私にとって、こういう壁は自分なりにショックでした。
広瀬無線が、屋上にあるゴルフ練習場のために依頼していた小池コーチのお兄さんという方が、荒川の河川敷にある都民ゴルフ場に勤めていたご縁で、ちょっと融通してもらって朝練習をさせてもらうことになりました。夕方だと時間もまちまちになってしまいますし、込み合うこともありましたからね。
会社を辞めて練習に専念はいいんですが、当然のことながらお金が続きません。それで、こんな生活は無謀だと思って田舎に帰ったんです。すると祖母が黙って3千円くれた。その時「ここは俺のいる場所じゃないんだ」と確信しました。長男が跡を取っている農家に私が暮らす余裕なんてないわけです。もう田舎には帰れないと覚悟を決めて、3千円を握って東京に戻りました。
コーチでインストラクターの小池兄弟のアパートに転がり込んで居候ですよ。お土産は私が自分で組み立てたテレビ。まだまだテレビが普及している時代じゃないから大変喜ばれましてね、少年時代からの特技に助けられたわけです。3畳間に2人で寝て、朝はゴルフの練習、昼間はラジオの組立を1台50円くらいで請けて内職です。今じゃあ考えられないけど、ハンダゴテひとつあればラジオくらい組み立てられた時代ですからね。
(次回に続く)

第1回「会社の屋上の練習場で出会った」

ゴルフが僕の人生を変えた。
自分でゴルフを始める前にたったひとつだけ知っていたことと言えば、昭和32年のカナダカップ。霞ヶ関CCで開催されたんですが、中村寅吉さんと小野光一さんが優勝して、トロフィーを高々と持ち上げているのを雑誌かなんかで見て「身の丈よりも大きいモノ振り回しているなあ」というのが印象でした。
これがちょうど、私が神田の広瀬無線という会社に入社した頃でした。小さい時からラジオ少年で電気がすべての少年だったし、相撲大会とか走り競争とかスポーツ関係の時はいつもサボっていましたよ。だから基礎体力なんかない。今の時代だったらこれでプロになろうなんて無謀ですね。
そんな私がゴルフを知ったのは、会社の屋上にゴルフの練習場があると気付いた時だから、18歳か19歳の頃ですね。社長がゴルフ好きで練習場を造って、あの辺の秋葉原の電気屋の社長さんたちが練習に来ていたわけです。造ったはいいが、素人だけでやっていてもしょうがないというんで、名門ゴルフ場からコーチというかインストラクターが教えに来るようになりました。
この練習場で初めてクラブを振り回した時は見事な空振り。尻もちまでつきましたよ。それで頭にきてゴルフをやるようになった。だって、そこに止まっているボールに当たらないなんて悔しいでしょ。
小学生の時にラジオ作りにのめりこんだ時もそうだけど、やるなら徹底してやりたいところがあるんだと思います。それでゴルフにのめりこんだ。
でも、実はもっと別の理由もあるんです。これを言うのはちょっと恥ずかしいが、給料ですよ。当時、僕の月給は1万円にいかない。ところがインストラクターの給料が4万円。大卒の初任給が1万1千円か2千円の頃で、僕は高卒だからね。70台のスコアでインストラクターの資格が取れるから、これを目指すことにしたんです。
(次回に続く)